箱根の山の、一分八秒

 父さん、あなたが箱根駅伝の選手として、登りの5区の選手として、2年続けて走った日のことを、私は一度も聞いたことがありませんでした。
 今ほど駅伝が注目されていなかったとはいえ、父さんの誇りだった箱根の激走を、息子に一度も聞かれなかったのは、淋しいことだよね。
 息子は著しく運動が苦手で、選手になるなど論外だったけど、それよりも、話題にしてもらえなかったことの方が悲しいよね。今さら遅すぎるのは、よくわかってる。
 父さんの四十九日の数日後、仕事で箱根に行きました。「俺の走った場所を、ちゃんと見てみろよ」と連れて来てくれたのかな。車を降りて、5区の信じられないほど急な坂道を歩いたら、後悔という言葉が頭に浮かびました。でも、父さんがいなくなったことを悲しんで、僕が泣いたのは、「数字」を見た瞬間だったんだ。

 昭和23年の1時間49分20秒と、昭和24年の1時間48分12秒。1分8秒記録が縮んでいました。
 このわずかな時間を縮めるために、父さんがどれだけの苦労をしたかを考えると、止めどもなく涙が溢れました。数字を見て大泣きする男なんて、おかしいよね。
 10年後にそちらに追いかけてった、母さんが言ってたよ。「父さんは、生活に追われてアルバイトに明け暮れていなければ、オリンピックにだって出られた人だった」と。
 叔父さんにも話を聞いたし、色々と調べてみたんだ。
 柏原(かしわばら)竜二(りゅうじ)の記録より30分以上遅いけど、父さんの代わりに、現代の選手達に言ってやるぞ。

 君達も、うちの親父のボロ靴で走ってみろよ。前の選手がいつ来るのかの情報がない中、極寒の中を待ち続けてみろよ。大会の直前までアルバイト、それも肉体作業してみろよ。1年中腹一杯食べられない生活をしてみろよ。選手不足で短距離の競技にもかり出され、全力疾走をしてみろよ。戦争に召集され、身体も心も傷ついて還ってきて、もう一度気持ちを奮い立たせて走ってみろよ。
 そんな中で、2年続けて5区を走り、68秒記録を縮めた親父を誇りに思うぞ、文句あるか、と。
 でも、これらの言葉は、僕自身にも突き刺さるんだ。父さんが縮めた「1分8秒」に値するものを、これからの人生で成し遂げることができ、それを子供達に伝えられるんだろうか。
 父さん、見えない襷(たすき)は確かに受け取ったよ。これから「1分8秒」を目指して、ひと踏ん張り頑張ってみる。だから、駅伝のことを尋ねなかった僕を、許してくれるかい? 風に耳を傾ければ答えてくれる? ねぇ、父さん……。

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